オタクリ!

腐女子でオタクなクリスチャンの生態系

聖書を携えて魔道書を読む~クリスチャンとファンタジー

話せば長いのですが、先日ひょんなことから教会の大学生と「TRPGをやりたい」という話になりました。
彼と、というかそもそも教会の友人とTRPGのこと話すのなんて初めてでしたが、最終的にはそれぞれかなりのクトゥルフ神話知識を持った同志であることが分かり、ちょっとした興奮状態になりました。

最初は立派なクリスチャン相手にどんな反応が帰ってくるのかなんとなく腹の探り合いで、

彼「えっとちなみにそのお好きなTRPGっていうのは
私「kkkkkkkkkuクトゥルフです…(リアルどもった)
彼「おっおぉ教会で
私「は、はい冒涜的ですよね…(なぜか敬語)
彼「い、いえ自分も興味あります」
私「えっ?」
彼「ルルブは持ってないんですけど」
私「いいですよ買わなくて罪犯すのは私一人で十分です」
彼「ははそれは罪じゃないですよ」
私「(ブラフにも引っかからなかっただと!?)

って感じの「これなんて正体隠匿系ゲーム?」って雰囲気でした。

この会話見てもらうと分かるけど、リアル技能値は彼のINT16できりは9ってところです。

ってそんなことが言いたかったのではなく。
それぐらい、文化に対して、善悪の基準ってクリスチャンそれぞれで曖昧というか十人十色なんですよね。
同質集団だと気を抜いていると、思わぬところで埋められない認識の差があるのに気づくことがあります。
だから文化の話をするときには、まず目の前の人が自分と同じ文化的価値観を持っているのかどうかを慎重に見極めないと、予想外の軋轢が生じてしまうのです。

いつだったか、これは私の教会の話ではないんだけど、あるミニストリーの前に皆でカラオケ行こうぜー!って話になったら牧師先生がキレたの。
当初私たちは、単にカラオケ好きな仲間内でテンション上げてからイベント行こうぜってテンションだったので、何も悪いことしてるつもりはありませんでした。
でも先生に「それミニストリーの参加者全員でやったらすごい変じゃないですか?何で全員でやったら変なことをわざわざ清められるべきミニストリーの前にするんですか?」って聞かれて、「確かにそれは変だわ」って気づいたんだよね。

私たち普通のクリスチャンにとっては、文化ってそれぐらい善悪を超えた当たり前の存在になっています。
非常に認識も判断もしづらい。
というかそこに足を突っ込んだら、究極的に自分の生活全て見直さなきゃいけなくなるから、誰も触れない。
だから牧師先生なんかは、文化完全否定派か、限りなくお茶濁す派か、どっちかに偏ってるイメージがある。

性的なもの、暴力的なものなど、特にクリスチャニティと軋轢が生じやすい文化ってあると思うんだけど、最近私が特に苦しんでいるのは「ファンタジー」そのものです。

ファンタジーって、要は神様が作ったこの世界とは別の世界観にトリップしちゃうってことだから、限りなく聖書から外れます。
そこには別の神様のような存在がいて、神話があって、妖精がいて、魔法があって、剣で戦う。
某エバの証人から「地獄に落ちるで!」って言われそうな"反キリスト"です。
冒頭のクトゥルフもまさにそんな感じ。
クトゥルフやっている間は聖書的世界観が脳内からすっ飛んでしまうので、私も友人の彼も、そんな「文化」に片足突っ込んでいることを同類以外に悟られたくなかったのです。

厄介なのは、私も彼も、クトゥルフやっている間もアイデンティティ上はちゃんとクリスチャンなんです。
どっちも好きで、どっちかって言ったらそりゃ神様が好きだけど、でもこのファンタジーな世界観も好き。

「真面目だなあ。それって対立事項なの?うまく付き合っていけばいいじゃん」って言ってくれる人もいました。
じゃあ究極の例話すね。
私が今リアルタイムに嵌っている、ファンタジー界のラスボス、指輪物語」シリーズことトールキン作品でね!

よりによってというより、恐らくファンタジー的なものに惹かれる性質があるならいつか必然的に出会うべき、あらゆるファンタジーの元ネタ。
ヨーロッパの伝承を組み合わせ、「エルフ」「ドワーフ」「オーク」といった空想上の存在の共通イメージを揺るぎないものにした、ファンタジー最古典。
それがトールキン作品。

トールキン言語学者で、まずエルフ語を作り、その言葉の由来を考えるために歴史(物語)を編み出したという、頭がおかしいレベルの天才でした。
ここでクリスチャンなら嫌でも連想します。あの御言葉を。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ福音書11)

初めてトールキンの話を聞いたとき、指輪物語を開いたとき、ぞっとしました。
その挙動が、まるで世界を作り出した神のようだったからです。
原作読んだことがある人は分かると思うけど、トールキン作品の無駄に細かくて冗長な感じ、神様に怒られそうだけど聖書にそっくりなんですよ。
トールキン作品は人に向けて書いた物語というより、記録、歴史書、研究書です。
しかも世界観が確立されすぎててファンタジーなのに謎の生活感覚との一致がある。
だってエルフの出身地の地域性が「ロスロリアン=京都」「裂け谷=東京」「闇の森=北関東」ってだいたいうまく分かれてるんですよ?
人ひとりの脳内で、見たこともないはずの極東の国現代日本にしっくり来るそんな細かい設定、普通考え付きます?
しかもトールキンは論評を嫌っていました。
「そんなところまで似なくていいのに」ってところまでそっくりです。

作家はその作品において神である。
トールキンほど、それを分かりやすく体現して、そしてそれが熱狂的に受け入れられた存在は他に見たことがありません。

ところで、大作ファンタジーって何となく戦時中に書かれるもしくは戦時中を舞台にする傾向がある気がするんですけど、トールキンが執筆していた第二次世界大戦下を舞台にした、対照的なファンタジーの大作がもうひとつありますよね。
指輪物語ゲド戦記と合わせて世界三大ファンタジーと称されている、「ナルニア国物語」です。

作者のC.S.ルイスはキリスト教文学者で、キリスト教的世界観を、キリスト教の語彙を使わずに子供たちに説明するために、この物語を作りました。
善の象徴であるライオンは、作中で「私はあなたたちの世界で別の名を持っている」とはっきり言っている、イエス・キリストの体現です。
ルイスは自らのファンタジー世界で神になれたのにそれをしなかった。
少なくとも動機は伝道だったから、ファンタジーにおける葛藤は生まれなかった。
あったのかもしれないけど上手く昇華された。

クリスチャン友達でも、ナルニア国物語の話は安心してできるという雰囲気があります。
浅はかだなって思うんですけど、「作り手・情報の発信者に信仰があるかどうか」でころっと態度変えちゃう傾向があるんですよ、私たちって。
同じことやってても、同じこと言ってても、信仰がある人の言動のほうが心理的に圧倒的に受け入れやすい。
ちょっと怖いよね。
だってその人に信仰があるかどうかなんて、
もっと言うとその人の信仰の有無にかかわらずそのファンタジー、その文化が聖書的かどうかなんて、すぐに分かるはずがないのに。

最後に、ファンタジーに心を奪われることの何がいけないのかって色々あると思うけど、私が今最も実感しているのは「時間が取られる」ってことかなって思います。
いや、だってロードオブザリング(映画)って一作3時間かかるからさ、ホビット含めたら一周18時間なわけよ。
それ7周してるからね私。レゴラス出てくるところだけなら多分30周ぐらいしてるからね。
神様から責任もって賜った時間を、非聖書的世界観に浸るのに使っちゃう、それって喜ばれることじゃないよなあって、心のどこかでは分かっているんです。
でもファンタジーに惹かれる心をとめられない。
これって結構オタクリの性質の根底にかかわっている気がするね。

といういわけで今日は特別結論が出なかったけど、今度教会の友人とクトゥルフセッションすることになりそうだから、そのときまた色々考えて書こうと思います。
ファンタジーとは、もうちょい戦って…もとい向き合ってみて、戦果が出たら報告しますね。
もし音沙汰がなかったら捕虜に取られたと思ってください。