オタクリ!

腐女子でオタクなクリスチャンの生態系

教会に人が集まることの意味〜コロナウイルス蔓延で考えたこと


いよいよというべきか、我が教会でもコロナ対策を余儀なくされている。

アルコール消毒必須、一斉のランチは無し、少しでも体調不良があれば即帰宅。

昔は多少体調不良であっても、奉仕があれば礼拝に行くのが美徳とされる時代もあったかもしれないが、今そんな状態で教会に行こうものなら非難轟々だろう。

この世界から、物理的に「集まること」自体がどんどん駆逐されているように感じる。
本日、2週間はイベントも自粛するよう要請が出た。
当たり前のように毎週集まって賛美や礼拝の時間を持てることがこんなに尊いことだったなんて、脅かされてみないと気づけないのだから我々も現金である。

3月下旬に予定していた、海外の先生を招いての大規模なセミナーは秋以降に延期となった。
今のところ、礼拝は毎週行なっていく予定だが、もしアウトブレイクが起きれば悠長なことは言っていられないだろう。


実は、「物理的に集まれなくなる」その空気の淀みを、もう随分前から、私たちの教会は他でもない彼の国から感じ取っていた。

彼の国で戦っている兄弟姉妹たちを守るために具体的には言えないが、今クリスチャンは酷い迫害を受けている。
知り合いの日本人宣教師も、スパイをつけられ、公安から執拗な取り調べを受け、脅され、帰国を余儀なくされた。
彼の教会は解散させられ、教会員は一人ひとり家でこっそり信仰を守るしかなくなった。

クリスチャンであることが危険にしかならない社会で、誰にも分かち合えず、たった一人でクリスチャンで在り続けるなんて、一体どれほど難しいことだろう。
想像もつかない。
その宣教師は、置いていく教会員たちが心配で、後ろ髪引かれる思いだったと言う。

いっぽう日本では、宗教への風当たりが強い反面、信仰の自由は堅く守られている。
別にクリスチャンを自称して命の危険に晒されることもない。
宗教や信仰心に対して、こんなに安全で公平な国もそうそう無いのではないだろうか。

そのためか、無教会主義然り、「特に教会に行っていないクリスチャン」「特にクリスチャンを自称しないクリスチャン」を、この国ではたまに見かける。
ネットを彷徨いていれば、何かしら教会に傷付けられ、教会に通わずに一人でインターネット情報や聖書その他の書籍を見聞きして信仰を守っている一匹狼クリスチャンに必ず出会う。
彼らはそこらの教会よりも余程ネットにおいて強い影響力を有しているように見えるので、余計目立つのだろう。

彼らが受けた仕打ちは知る由も無いが、実際彼らのいた教会は酷いことをしたのだと思う。
そこを否定するつもりはない。
とはいえ、いやだからこそ、自分の教会が本当に素晴らしく、教会制度に助けられてきた私は、彼らとは話が合わないことが多い。
彼らは教会そのものを憎んでいるので、前提が違うのだ。

彼らからすれば、この自由で安全な日本において、集まって礼拝することなんて、面倒くささやリスクしか感じられないだろう。
信仰の自由は外界だけでなく内からも侵される危険がある。
このように集まることが脅かされてきた今となれば尚更、教会になんて行かないほうが安全なのかもしれない。

しかし、コロナウイルスによって集会が脅威に晒されたことで、図らずも教会がとても尊い存在だということを、私は改めて実感している。

このように、多世代の人々が、利害関係なく純粋に愛し合い続ける場所として、地域に開かれているコミュニティは他に知らない。
そこで育まれる人間関係は、行きずりの刹那的盛り上がりでもなければ、何の事情も知らない同志の無責任な励まし合いでもない。
それぞれが、愛することに対して謙虚かつストイックな、責任ある継続的人間関係だ。

神の国はあなたがたの間にあると、ルカ17章20節・21節でイエス様は言われた。
クリスチャンかどうかにかかわらず、対面かネット上かにかかわらず、人との関係の中に、確かに神の国はある。
それでも私は、自分の教会を見回したときに思う。

ああ、ここは地上で最も天国に近い場所だな、と。

全てのクリスチャンにとって、教会や家庭が、そのような場所になってほしいと切に願う。
そして、この素晴らしい場所で賛美し礼拝する楽しみを、私たちクリスチャンから、誰も何も、奪わないで欲しいと思う。


多くの方々が寝る間も惜しんでコロナウイルスの脅威と戦っていると聞いている。
アウトブレイクを防ぐためなら、礼拝を中止することも致し方ないと思うし、そのために教会は協力を惜しまないべきだ。

礼拝会だけが礼拝でないこともよく理解している。(ただ我々がそう思っていることを、無教会の方々はいまいち理解してくださらないようである)

それでも、その先に、再び仲間と賛美し、礼拝できる日が必ず来ることを信じている。
何故なら、それは神様が喜ばれることだと、私たちは知っているからだ。