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腐女子でオタクなクリスチャンの生態系

信仰と仕事の両立とは? クリスチャン社長の元で4年間働いた話【第二話】

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私はクリスチャン社長の部下になった。
クリスチャンの上司の下で働くということに、ノンクリスチャンの両親は最初から良い顔をしなかった。
宗教が理由なら応援できない、とのことだった。
それもそうか、と納得する一方、親から祝福されない人生って何なんだろうな、と思った。

社長との出会いについては先に記事にさせていただいたので、
彼女と仕事を始めてみて、どのような変化や葛藤があったのか、忘れないうちに書き留めておきたい。

初めての会社勤め、しかも典型的な何でも屋の中小企業で、これといって教育プログラムがあるわけではない。
もともと注意欠陥傾向がある上に、ルーティーンではなく、日々全く内容や状況が変わる慣れない事務作業だ。
私は失敗しまくった。もうありとあらゆる失敗をしたと言っていい。

しかし、失敗それ自体よりも、一番きつかったのは、私の仕事上のミスや失敗が、最終的には全て信仰上の問題に繋げて考えられることだった。
日々、社長から、「祈り足りない」「祈りが弱弱しい」「信仰が薄い」と言われ、社長だけでなく彼女の教会の牧師からも、信仰が弱いと責められた。
牧師は社長に「なんできりさんみたいな人雇ってるの」とまで言ったらしい。

エス様と個人的な関係がないと言われ、当時教会にも通っていないひよっこクリスチャンだった私は当然大いに傷ついた。
しかしその一方で、教会に通えていないことに対して確かに負い目もあり、しっかりしたクリスチャンかと言われれば、自信を持ってそうだと言えなかった。
洗礼を受け、「きちんとした」クリスチャンになるのには、いい機会なのかもしれないと思った。

私の家はクリスチャンホームではない。
大学3年のクリスマス、「洗礼を受けたい」と両親に告白して大喧嘩になった記憶が頭を過ぎる。
自分の教会の牧師たちとも相談し、結果から言えば家族に黙って洗礼を受けてしまった。
そして、逃げるように、追い立てられるように、そして追い出されるように家を出た。
まるで駆け落ちである。
一人暮らしによって、自由に日常生活で賛美や祈りをできるようになったこと、教会に出入りできるようになったことは幸いだった。

しかし、洗礼を受けてからも、仕事上の問題が信仰の問題に直結する日々が続いた。
社長は私のメンター、つまり私を教え導く者という自負があったので、容赦がなかった。
とにかく自分を真似ろと言った。

社長の力強い信仰を前にして、彼女は神様の言葉を代弁しているのではないかと、私は恐れた。
だから彼女の言う通りに、同じようにできない自分のことを、神様は責めているに違いないと思った。
同時に、彼女の苛烈な言葉や攻撃にどうしても反発してしまう自分を呪った。

様々な自己啓発や「勉強のための」投資案件に、幾ら使ったか分からない。
振り返ると色々と頭がおかしかったと思うが、当時の私の狭い信仰世界では、彼女の言葉に対応し続けるので精いっぱいだったのである。

「自分は仕事ができない」「自分の信仰は弱い」
入社後最初の二年間でみっちり刷り込まれたこの二つの自己認識は、今に至るまで、ふとしたきっかけに、思いもよらぬ方向から私を攻撃する。
この呪縛から逃れるために、どれほど祈り泣いたか、またどれほど教会の仲間たちに祈り優しい言葉をかけてもらったか分からないが、
恐るべきことに、歪んだ認知だと自覚しておりながら、未だにそれを手放すことができていない。


クリスチャン社長の元で働いたことで、良いこと悪いこと色々あったが、今の私に最も影響を与えているのは、「仕事上の成果で信仰を測る」という態度だ。
そんなのおかしいと、普通のクリスチャンなら言うだろう。
しかし、仕事にかかわらず、目に見えて変化していない、祝福を受けていない人について、その原因を祈りや信仰の不足に求める態度は、案外どこでも見かける。
だってそうでなければ、私たちの善意や努力、成功に、何の意味があるのか。
奇跡に対して主を褒め称える態度は、裏を返せば、奇跡なき状況において御心の不在を黙認していることに他ならない。

「成果は信仰の産物」という考え方を、裁きという言葉で一刀両断するには、これは(特に働き者のクリスチャンにとって)根深い問題なのだ。
それが仕事となると歴然と分かる、というだけの話だ。

全ての成果は主に拠ろうが、成果は信仰の産物だろうが、はっきり言ってどちらの考え方だろうと、私にとってはキツい。
失敗したときも、成功したときもだ。

4年間を通して突きつけられた、仕事と信仰の両立に対する答えを、私は今でも追い続けている。

この重大な問いについて考えるのに、クリスチャンの元で働くということは大いに役に立つだろう。
一方でその間に受ける攻撃は生半可なものではないので、もしクリスチャンの元で働こうと思ったら、それなりの覚悟が必要だ。

また時間ができたら、どんな戦いがあったのか、書ける範囲で記録しておきたい。