私が闘うクリスチャンと出会った話 【第一話】
「彼女」と出会ったのは、今から八年ほど前のことだ。
出会ったときのことは覚えていないので、大して重要ではない。
重要なのは、彼女が私と同じクリスチャンであるということが三年前に分かって、彼女が経営する会社で仕事を始めると同時に、「私とは違うクリスチャンである」ということが分かった、ということである。
クリスチャンと一言に言っても多種多様な中において、彼女は一際変わっていた。
彼女は苛烈だった。
当時カルチャーショックを受けた、私との最大の相違点は、彼女が「神を信じたからといって天国に行けるわけではない」「祈りが聞かれないのは祈りが足りないからだ」と考えていることだった。
この二点は、クリスチャンの中でもかなり繊細な問題で、少なくとも彼女のようにはっきり言うと物議を醸すので注意しよう。
先に話すと、私は猛反発した。ほとんど異端じゃねぇかとすら思ったし、教会の仲間にも同じように言われた。
とはいえ、雇用関係があった上に、彼女は信仰上も私のメンターであると自負していたので、私は何とか彼女の「指導」を受け入れようと努めた。
実際、私が仕事ができないことは確かだったし、客観的に見て「イケてないクリスチャン」(彼女談)だったのも認めていた。
仮に劇薬だとしても、それを飲んで一度死に、生まれ変わる必要が、私にはあった。
彼女には存分に傷つけられたが、彼女のお蔭で今の私があるのも、紛れもない事実なのである。
私たちほど、「異なる」信仰をもって、こんなに近くで、「同じ」会社で「同じ」神に仕えた二人はそうそういないと思う。
色々なことがあった。三年目に入ってなお、現在進行形で、色々なことが起きている。
あまりにも色々なことがありすぎて(しかも半分は仕事だし)、ネットに書けることなんて多分5%にも満たない。
何より、語れるほど私自身の「傷」が癒されていないのだ。
それでも最近、こんな貴重な経験を黙っているなんて、死ぬほどもったいない、と思うようになった。
多分1%ずつくらいになるけど、傷口が開いて血が流れ出さない程度に、私が彼女と過ごしたこの二年半で何を学んだのかお話ししたい。
さて、その前に、話が分かりやすくなるように、簡単に彼女と出会う前の私がどんなクリスチャンだったか説明しよう。
「教会には偶にしか行かない、洗礼を受けていないクリスチャン」、それが私だった。
クリスチャン自体に馴染みがない人は、「何それ?」と思うかもしれない。
「教会に行っている人、洗礼を受けている人がクリスチャンなんじゃないの?」
そういうツッコミをしてくれた人は、まだ私たちのことをよく知ってくれている。
一度イエス・キリストへの信仰を告白をする、つまりクリスチャンを自称すると、一応その人はクリスチャンとなる。
しかし、それはクリスチャン生活の長い道のりの一ステップに過ぎず、更に「洗礼を受ける」「教会に通う」というステージが別ステップで存在していて、しかもそのステップを踏むかどうかは本人の意思に委ねられている。
洗礼というのは、水を被ったり水に飛び込んだりして、それまでの古い自分が神様に清められ、神様に基づいて新しく生まれ変わったことを象徴的に示す儀式だ。
何で洗礼をする必要があるの?っていう疑問は実は日本宣教が始まってこの方ずっとある問題なのだが、敢えて洗礼を機能面から説明すると、結婚に例えれば結婚式や婚姻届みたいなもんだ。
友だちをたくさん呼んで大々的に結婚すると、大勢の証人の前で永遠の愛を宣言するから別れにくいって言うじゃん?
同列には語れないけど、まあ本人に覚悟ができるという点では同じなんだな。
ちなみにこれは神様が言っているんじゃなくて、私たちが解釈しているだけ。
実際のところ、神様は「洗礼を受けろ」としか言っていない。でも、言われたことはやる。それが信仰だ。
教会で洗礼を受けると、その人はその教会の正式な教会員となる。
教会員になったらどうなるのかは教会によって異なるが、別に教会員にならなくてもどこの教会にも通える。
ただし、さっき言ったように、契約をしていないので所属感が生まれない、という弊害が起こる。
ちょっとナーバスな問題なのだが、私は洗礼を受けたいと家族に話したときに猛反対を受け、洗礼を受けるのが延び延びになっていた。
結果的にそのせいで教会にいまいちコミットできず、いつもお客さん然としていて、あまり教会に通えていなかった。
当時の私にとっては「それでも私はクリスチャン」だったし、当時彼女から見ると「そんなのはクリスチャンではない」のだった。
彼女は神様に仕え教会に献金をするために会社を経営しているような、24時間365日働くクリスチャンだったので、私のような「弱弱しい、なんちゃってクリスチャン」(彼女談)が大嫌いだった。
彼女は私を、彼女が通っている教会の牧師に引き渡した。
牧師は彼女に輪をかけて苛烈で、私の話を聞いて一言、「あなた個人的にイエス様を知らないのね」と言い放った。
若干クリスチャン的語彙なので分かりづらいのだが、友人関係に例えると、Aちゃんから、「あなたBちゃんと友達だと思っているみたいだけど、あなたたちの関係見てるとそんなの友達じゃないわよ」とわざわざご親切に言われたようなものである。
つまり「個人的にイエス様を知らない」というのは、「あなたみたいな人はクリスチャンじゃない」と言っているのとほとんど同義なのだ。
自分でも色々な意味で不信仰なクリスチャンだとは思っていたが、面と向かってそれを指摘されたので、絶句するほどムカついた。
さらに、彼女達から「あなたはさっさと洗礼を受けないと変われない」「家族に黙ってでも洗礼を受けなさい」と言われたときには、怒りは頂点に達していた。
さっきの結婚式の例えを思い出してほしい。
両親から許可を貰えず結婚に踏み切れないカップルに対し、「駆け落ちしろ」「じゃなきゃお前らはすぐ別れる」と外野が口を出してきたのである。
例え今は認めてもらえなくても、将来、自分たちの仲を認めてくれた両親が立ち会った幸せな結婚式(つまりは洗礼式)を思い描くぐらい、許してほしかった。
しかし、名実ともに不信仰な私は彼女達に反論する言葉を持ちえなかったし、悲しいことに彼女達の指摘の一側面は事実だった。
「結婚しなくたって私たちは絶対に別れない!」と自信を持って言うことはできたが、両親の目を盗んでびくびく逢引しているような生活を、「幸せだ」と言い返すことはできなかった。
そして私は、文字通り「駆け落ち」したのである。
…身の上話をしていたら、思いの他長くなってしまった。
多分0.2%ぐらいしか進んでいない。
続きはまた今度。