オタクリ!

腐女子でオタクなクリスチャンの生態系

信仰と仕事の両立とは? クリスチャン社長の元で4年間働いた話【第二話】

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私はクリスチャン社長の部下になった。
クリスチャンの上司の下で働くということに、ノンクリスチャンの両親は最初から良い顔をしなかった。
宗教が理由なら応援できない、とのことだった。
それもそうか、と納得する一方、親から祝福されない人生って何なんだろうな、と思った。

社長との出会いについては先に記事にさせていただいたので、
彼女と仕事を始めてみて、どのような変化や葛藤があったのか、忘れないうちに書き留めておきたい。

初めての会社勤め、しかも典型的な何でも屋の中小企業で、これといって教育プログラムがあるわけではない。
もともと注意欠陥傾向がある上に、ルーティーンではなく、日々全く内容や状況が変わる慣れない事務作業だ。
私は失敗しまくった。もうありとあらゆる失敗をしたと言っていい。

しかし、失敗それ自体よりも、一番きつかったのは、私の仕事上のミスや失敗が、最終的には全て信仰上の問題に繋げて考えられることだった。
日々、社長から、「祈り足りない」「祈りが弱弱しい」「信仰が薄い」と言われ、社長だけでなく彼女の教会の牧師からも、信仰が弱いと責められた。
牧師は社長に「なんできりさんみたいな人雇ってるの」とまで言ったらしい。

エス様と個人的な関係がないと言われ、当時教会にも通っていないひよっこクリスチャンだった私は当然大いに傷ついた。
しかしその一方で、教会に通えていないことに対して確かに負い目もあり、しっかりしたクリスチャンかと言われれば、自信を持ってそうだと言えなかった。
洗礼を受け、「きちんとした」クリスチャンになるのには、いい機会なのかもしれないと思った。

私の家はクリスチャンホームではない。
大学3年のクリスマス、「洗礼を受けたい」と両親に告白して大喧嘩になった記憶が頭を過ぎる。
自分の教会の牧師たちとも相談し、結果から言えば家族に黙って洗礼を受けてしまった。
そして、逃げるように、追い立てられるように、そして追い出されるように家を出た。
まるで駆け落ちである。
一人暮らしによって、自由に日常生活で賛美や祈りをできるようになったこと、教会に出入りできるようになったことは幸いだった。

しかし、洗礼を受けてからも、仕事上の問題が信仰の問題に直結する日々が続いた。
社長は私のメンター、つまり私を教え導く者という自負があったので、容赦がなかった。
とにかく自分を真似ろと言った。

社長の力強い信仰を前にして、彼女は神様の言葉を代弁しているのではないかと、私は恐れた。
だから彼女の言う通りに、同じようにできない自分のことを、神様は責めているに違いないと思った。
同時に、彼女の苛烈な言葉や攻撃にどうしても反発してしまう自分を呪った。

様々な自己啓発や「勉強のための」投資案件に、幾ら使ったか分からない。
振り返ると色々と頭がおかしかったと思うが、当時の私の狭い信仰世界では、彼女の言葉に対応し続けるので精いっぱいだったのである。

「自分は仕事ができない」「自分の信仰は弱い」
入社後最初の二年間でみっちり刷り込まれたこの二つの自己認識は、今に至るまで、ふとしたきっかけに、思いもよらぬ方向から私を攻撃する。
この呪縛から逃れるために、どれほど祈り泣いたか、またどれほど教会の仲間たちに祈り優しい言葉をかけてもらったか分からないが、
恐るべきことに、歪んだ認知だと自覚しておりながら、未だにそれを手放すことができていない。


クリスチャン社長の元で働いたことで、良いこと悪いこと色々あったが、今の私に最も影響を与えているのは、「仕事上の成果で信仰を測る」という態度だ。
そんなのおかしいと、普通のクリスチャンなら言うだろう。
しかし、仕事にかかわらず、目に見えて変化していない、祝福を受けていない人について、その原因を祈りや信仰の不足に求める態度は、案外どこでも見かける。
だってそうでなければ、私たちの善意や努力、成功に、何の意味があるのか。
奇跡に対して主を褒め称える態度は、裏を返せば、奇跡なき状況において御心の不在を黙認していることに他ならない。

「成果は信仰の産物」という考え方を、裁きという言葉で一刀両断するには、これは(特に働き者のクリスチャンにとって)根深い問題なのだ。
それが仕事となると歴然と分かる、というだけの話だ。

全ての成果は主に拠ろうが、成果は信仰の産物だろうが、はっきり言ってどちらの考え方だろうと、私にとってはキツい。
失敗したときも、成功したときもだ。

4年間を通して突きつけられた、仕事と信仰の両立に対する答えを、私は今でも追い続けている。

この重大な問いについて考えるのに、クリスチャンの元で働くということは大いに役に立つだろう。
一方でその間に受ける攻撃は生半可なものではないので、もしクリスチャンの元で働こうと思ったら、それなりの覚悟が必要だ。

また時間ができたら、どんな戦いがあったのか、書ける範囲で記録しておきたい。

 

教会に人が集まることの意味〜コロナウイルス蔓延で考えたこと


いよいよというべきか、我が教会でもコロナ対策を余儀なくされている。

アルコール消毒必須、一斉のランチは無し、少しでも体調不良があれば即帰宅。

昔は多少体調不良であっても、奉仕があれば礼拝に行くのが美徳とされる時代もあったかもしれないが、今そんな状態で教会に行こうものなら非難轟々だろう。

この世界から、物理的に「集まること」自体がどんどん駆逐されているように感じる。
本日、2週間はイベントも自粛するよう要請が出た。
当たり前のように毎週集まって賛美や礼拝の時間を持てることがこんなに尊いことだったなんて、脅かされてみないと気づけないのだから我々も現金である。

3月下旬に予定していた、海外の先生を招いての大規模なセミナーは秋以降に延期となった。
今のところ、礼拝は毎週行なっていく予定だが、もしアウトブレイクが起きれば悠長なことは言っていられないだろう。


実は、「物理的に集まれなくなる」その空気の淀みを、もう随分前から、私たちの教会は他でもない彼の国から感じ取っていた。

彼の国で戦っている兄弟姉妹たちを守るために具体的には言えないが、今クリスチャンは酷い迫害を受けている。
知り合いの日本人宣教師も、スパイをつけられ、公安から執拗な取り調べを受け、脅され、帰国を余儀なくされた。
彼の教会は解散させられ、教会員は一人ひとり家でこっそり信仰を守るしかなくなった。

クリスチャンであることが危険にしかならない社会で、誰にも分かち合えず、たった一人でクリスチャンで在り続けるなんて、一体どれほど難しいことだろう。
想像もつかない。
その宣教師は、置いていく教会員たちが心配で、後ろ髪引かれる思いだったと言う。

いっぽう日本では、宗教への風当たりが強い反面、信仰の自由は堅く守られている。
別にクリスチャンを自称して命の危険に晒されることもない。
宗教や信仰心に対して、こんなに安全で公平な国もそうそう無いのではないだろうか。

そのためか、無教会主義然り、「特に教会に行っていないクリスチャン」「特にクリスチャンを自称しないクリスチャン」を、この国ではたまに見かける。
ネットを彷徨いていれば、何かしら教会に傷付けられ、教会に通わずに一人でインターネット情報や聖書その他の書籍を見聞きして信仰を守っている一匹狼クリスチャンに必ず出会う。
彼らはそこらの教会よりも余程ネットにおいて強い影響力を有しているように見えるので、余計目立つのだろう。

彼らが受けた仕打ちは知る由も無いが、実際彼らのいた教会は酷いことをしたのだと思う。
そこを否定するつもりはない。
とはいえ、いやだからこそ、自分の教会が本当に素晴らしく、教会制度に助けられてきた私は、彼らとは話が合わないことが多い。
彼らは教会そのものを憎んでいるので、前提が違うのだ。

彼らからすれば、この自由で安全な日本において、集まって礼拝することなんて、面倒くささやリスクしか感じられないだろう。
信仰の自由は外界だけでなく内からも侵される危険がある。
このように集まることが脅かされてきた今となれば尚更、教会になんて行かないほうが安全なのかもしれない。

しかし、コロナウイルスによって集会が脅威に晒されたことで、図らずも教会がとても尊い存在だということを、私は改めて実感している。

このように、多世代の人々が、利害関係なく純粋に愛し合い続ける場所として、地域に開かれているコミュニティは他に知らない。
そこで育まれる人間関係は、行きずりの刹那的盛り上がりでもなければ、何の事情も知らない同志の無責任な励まし合いでもない。
それぞれが、愛することに対して謙虚かつストイックな、責任ある継続的人間関係だ。

神の国はあなたがたの間にあると、ルカ17章20節・21節でイエス様は言われた。
クリスチャンかどうかにかかわらず、対面かネット上かにかかわらず、人との関係の中に、確かに神の国はある。
それでも私は、自分の教会を見回したときに思う。

ああ、ここは地上で最も天国に近い場所だな、と。

全てのクリスチャンにとって、教会や家庭が、そのような場所になってほしいと切に願う。
そして、この素晴らしい場所で賛美し礼拝する楽しみを、私たちクリスチャンから、誰も何も、奪わないで欲しいと思う。


多くの方々が寝る間も惜しんでコロナウイルスの脅威と戦っていると聞いている。
アウトブレイクを防ぐためなら、礼拝を中止することも致し方ないと思うし、そのために教会は協力を惜しまないべきだ。

礼拝会だけが礼拝でないこともよく理解している。(ただ我々がそう思っていることを、無教会の方々はいまいち理解してくださらないようである)

それでも、その先に、再び仲間と賛美し、礼拝できる日が必ず来ることを信じている。
何故なら、それは神様が喜ばれることだと、私たちは知っているからだ。

私が闘うクリスチャンと出会った話 【第一話】

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「彼女」と出会ったのは、今から八年ほど前のことだ。

出会ったときのことは覚えていないので、大して重要ではない。

重要なのは、彼女が私と同じクリスチャンであるということが三年前に分かって、彼女が経営する会社で仕事を始めると同時に、「私とは違うクリスチャンである」ということが分かった、ということである。

 

クリスチャンと一言に言っても多種多様な中において、彼女は一際変わっていた。

彼女は苛烈だった。

当時カルチャーショックを受けた、私との最大の相違点は、彼女が「神を信じたからといって天国に行けるわけではない」「祈りが聞かれないのは祈りが足りないからだ」と考えていることだった。

この二点は、クリスチャンの中でもかなり繊細な問題で、少なくとも彼女のようにはっきり言うと物議を醸すので注意しよう。

先に話すと、私は猛反発した。ほとんど異端じゃねぇかとすら思ったし、教会の仲間にも同じように言われた。

とはいえ、雇用関係があった上に、彼女は信仰上も私のメンターであると自負していたので、私は何とか彼女の「指導」を受け入れようと努めた。

実際、私が仕事ができないことは確かだったし、客観的に見て「イケてないクリスチャン」(彼女談)だったのも認めていた。

仮に劇薬だとしても、それを飲んで一度死に、生まれ変わる必要が、私にはあった。

彼女には存分に傷つけられたが、彼女のお蔭で今の私があるのも、紛れもない事実なのである。

 

私たちほど、「異なる」信仰をもって、こんなに近くで、「同じ」会社で「同じ」神に仕えた二人はそうそういないと思う。

色々なことがあった。三年目に入ってなお、現在進行形で、色々なことが起きている。

あまりにも色々なことがありすぎて(しかも半分は仕事だし)、ネットに書けることなんて多分5%にも満たない。

何より、語れるほど私自身の「傷」が癒されていないのだ。

 

それでも最近、こんな貴重な経験を黙っているなんて、死ぬほどもったいない、と思うようになった。

多分1%ずつくらいになるけど、傷口が開いて血が流れ出さない程度に、私が彼女と過ごしたこの二年半で何を学んだのかお話ししたい。

 

さて、その前に、話が分かりやすくなるように、簡単に彼女と出会う前の私がどんなクリスチャンだったか説明しよう。

「教会には偶にしか行かない、洗礼を受けていないクリスチャン」、それが私だった。

クリスチャン自体に馴染みがない人は、「何それ?」と思うかもしれない。

「教会に行っている人、洗礼を受けている人がクリスチャンなんじゃないの?」

そういうツッコミをしてくれた人は、まだ私たちのことをよく知ってくれている。

 

一度イエス・キリストへの信仰を告白をする、つまりクリスチャンを自称すると、一応その人はクリスチャンとなる。

しかし、それはクリスチャン生活の長い道のりの一ステップに過ぎず、更に「洗礼を受ける」「教会に通う」というステージが別ステップで存在していて、しかもそのステップを踏むかどうかは本人の意思に委ねられている。

洗礼というのは、水を被ったり水に飛び込んだりして、それまでの古い自分が神様に清められ、神様に基づいて新しく生まれ変わったことを象徴的に示す儀式だ。

何で洗礼をする必要があるの?っていう疑問は実は日本宣教が始まってこの方ずっとある問題なのだが、敢えて洗礼を機能面から説明すると、結婚に例えれば結婚式や婚姻届みたいなもんだ。

友だちをたくさん呼んで大々的に結婚すると、大勢の証人の前で永遠の愛を宣言するから別れにくいって言うじゃん?

同列には語れないけど、まあ本人に覚悟ができるという点では同じなんだな。

ちなみにこれは神様が言っているんじゃなくて、私たちが解釈しているだけ。

実際のところ、神様は「洗礼を受けろ」としか言っていない。でも、言われたことはやる。それが信仰だ。

 

教会で洗礼を受けると、その人はその教会の正式な教会員となる。

教会員になったらどうなるのかは教会によって異なるが、別に教会員にならなくてもどこの教会にも通える。

ただし、さっき言ったように、契約をしていないので所属感が生まれない、という弊害が起こる。

ちょっとナーバスな問題なのだが、私は洗礼を受けたいと家族に話したときに猛反対を受け、洗礼を受けるのが延び延びになっていた。

結果的にそのせいで教会にいまいちコミットできず、いつもお客さん然としていて、あまり教会に通えていなかった。

 

当時の私にとっては「それでも私はクリスチャン」だったし、当時彼女から見ると「そんなのはクリスチャンではない」のだった。

彼女は神様に仕え教会に献金をするために会社を経営しているような、24時間365日働くクリスチャンだったので、私のような「弱弱しい、なんちゃってクリスチャン」(彼女談)が大嫌いだった。

彼女は私を、彼女が通っている教会の牧師に引き渡した。

牧師は彼女に輪をかけて苛烈で、私の話を聞いて一言、「あなた個人的にイエス様を知らないのね」と言い放った。

若干クリスチャン的語彙なので分かりづらいのだが、友人関係に例えると、Aちゃんから、「あなたBちゃんと友達だと思っているみたいだけど、あなたたちの関係見てるとそんなの友達じゃないわよ」とわざわざご親切に言われたようなものである。

つまり「個人的にイエス様を知らない」というのは、「あなたみたいな人はクリスチャンじゃない」と言っているのとほとんど同義なのだ。

自分でも色々な意味で不信仰なクリスチャンだとは思っていたが、面と向かってそれを指摘されたので、絶句するほどムカついた。

さらに、彼女達から「あなたはさっさと洗礼を受けないと変われない」「家族に黙ってでも洗礼を受けなさい」と言われたときには、怒りは頂点に達していた。

さっきの結婚式の例えを思い出してほしい。

両親から許可を貰えず結婚に踏み切れないカップルに対し、「駆け落ちしろ」「じゃなきゃお前らはすぐ別れる」と外野が口を出してきたのである。

例え今は認めてもらえなくても、将来、自分たちの仲を認めてくれた両親が立ち会った幸せな結婚式(つまりは洗礼式)を思い描くぐらい、許してほしかった。

 

しかし、名実ともに不信仰な私は彼女達に反論する言葉を持ちえなかったし、悲しいことに彼女達の指摘の一側面は事実だった。

「結婚しなくたって私たちは絶対に別れない!」と自信を持って言うことはできたが、両親の目を盗んでびくびく逢引しているような生活を、「幸せだ」と言い返すことはできなかった。

 

そして私は、文字通り「駆け落ち」したのである。

 

…身の上話をしていたら、思いの他長くなってしまった。

多分0.2%ぐらいしか進んでいない。

続きはまた今度。

聖書を携えて魔道書を読む~クリスチャンとファンタジー

話せば長いのですが、先日ひょんなことから教会の大学生と「TRPGをやりたい」という話になりました。
彼と、というかそもそも教会の友人とTRPGのこと話すのなんて初めてでしたが、最終的にはそれぞれかなりのクトゥルフ神話知識を持った同志であることが分かり、ちょっとした興奮状態になりました。

最初は立派なクリスチャン相手にどんな反応が帰ってくるのかなんとなく腹の探り合いで、

彼「えっとちなみにそのお好きなTRPGっていうのは
私「kkkkkkkkkuクトゥルフです…(リアルどもった)
彼「おっおぉ教会で
私「は、はい冒涜的ですよね…(なぜか敬語)
彼「い、いえ自分も興味あります」
私「えっ?」
彼「ルルブは持ってないんですけど」
私「いいですよ買わなくて罪犯すのは私一人で十分です」
彼「ははそれは罪じゃないですよ」
私「(ブラフにも引っかからなかっただと!?)

って感じの「これなんて正体隠匿系ゲーム?」って雰囲気でした。

この会話見てもらうと分かるけど、リアル技能値は彼のINT16できりは9ってところです。

ってそんなことが言いたかったのではなく。
それぐらい、文化に対して、善悪の基準ってクリスチャンそれぞれで曖昧というか十人十色なんですよね。
同質集団だと気を抜いていると、思わぬところで埋められない認識の差があるのに気づくことがあります。
だから文化の話をするときには、まず目の前の人が自分と同じ文化的価値観を持っているのかどうかを慎重に見極めないと、予想外の軋轢が生じてしまうのです。

いつだったか、これは私の教会の話ではないんだけど、あるミニストリーの前に皆でカラオケ行こうぜー!って話になったら牧師先生がキレたの。
当初私たちは、単にカラオケ好きな仲間内でテンション上げてからイベント行こうぜってテンションだったので、何も悪いことしてるつもりはありませんでした。
でも先生に「それミニストリーの参加者全員でやったらすごい変じゃないですか?何で全員でやったら変なことをわざわざ清められるべきミニストリーの前にするんですか?」って聞かれて、「確かにそれは変だわ」って気づいたんだよね。

私たち普通のクリスチャンにとっては、文化ってそれぐらい善悪を超えた当たり前の存在になっています。
非常に認識も判断もしづらい。
というかそこに足を突っ込んだら、究極的に自分の生活全て見直さなきゃいけなくなるから、誰も触れない。
だから牧師先生なんかは、文化完全否定派か、限りなくお茶濁す派か、どっちかに偏ってるイメージがある。

性的なもの、暴力的なものなど、特にクリスチャニティと軋轢が生じやすい文化ってあると思うんだけど、最近私が特に苦しんでいるのは「ファンタジー」そのものです。

ファンタジーって、要は神様が作ったこの世界とは別の世界観にトリップしちゃうってことだから、限りなく聖書から外れます。
そこには別の神様のような存在がいて、神話があって、妖精がいて、魔法があって、剣で戦う。
某エバの証人から「地獄に落ちるで!」って言われそうな"反キリスト"です。
冒頭のクトゥルフもまさにそんな感じ。
クトゥルフやっている間は聖書的世界観が脳内からすっ飛んでしまうので、私も友人の彼も、そんな「文化」に片足突っ込んでいることを同類以外に悟られたくなかったのです。

厄介なのは、私も彼も、クトゥルフやっている間もアイデンティティ上はちゃんとクリスチャンなんです。
どっちも好きで、どっちかって言ったらそりゃ神様が好きだけど、でもこのファンタジーな世界観も好き。

「真面目だなあ。それって対立事項なの?うまく付き合っていけばいいじゃん」って言ってくれる人もいました。
じゃあ究極の例話すね。
私が今リアルタイムに嵌っている、ファンタジー界のラスボス、指輪物語」シリーズことトールキン作品でね!

よりによってというより、恐らくファンタジー的なものに惹かれる性質があるならいつか必然的に出会うべき、あらゆるファンタジーの元ネタ。
ヨーロッパの伝承を組み合わせ、「エルフ」「ドワーフ」「オーク」といった空想上の存在の共通イメージを揺るぎないものにした、ファンタジー最古典。
それがトールキン作品。

トールキン言語学者で、まずエルフ語を作り、その言葉の由来を考えるために歴史(物語)を編み出したという、頭がおかしいレベルの天才でした。
ここでクリスチャンなら嫌でも連想します。あの御言葉を。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ福音書11)

初めてトールキンの話を聞いたとき、指輪物語を開いたとき、ぞっとしました。
その挙動が、まるで世界を作り出した神のようだったからです。
原作読んだことがある人は分かると思うけど、トールキン作品の無駄に細かくて冗長な感じ、神様に怒られそうだけど聖書にそっくりなんですよ。
トールキン作品は人に向けて書いた物語というより、記録、歴史書、研究書です。
しかも世界観が確立されすぎててファンタジーなのに謎の生活感覚との一致がある。
だってエルフの出身地の地域性が「ロスロリアン=京都」「裂け谷=東京」「闇の森=北関東」ってだいたいうまく分かれてるんですよ?
人ひとりの脳内で、見たこともないはずの極東の国現代日本にしっくり来るそんな細かい設定、普通考え付きます?
しかもトールキンは論評を嫌っていました。
「そんなところまで似なくていいのに」ってところまでそっくりです。

作家はその作品において神である。
トールキンほど、それを分かりやすく体現して、そしてそれが熱狂的に受け入れられた存在は他に見たことがありません。

ところで、大作ファンタジーって何となく戦時中に書かれるもしくは戦時中を舞台にする傾向がある気がするんですけど、トールキンが執筆していた第二次世界大戦下を舞台にした、対照的なファンタジーの大作がもうひとつありますよね。
指輪物語ゲド戦記と合わせて世界三大ファンタジーと称されている、「ナルニア国物語」です。

作者のC.S.ルイスはキリスト教文学者で、キリスト教的世界観を、キリスト教の語彙を使わずに子供たちに説明するために、この物語を作りました。
善の象徴であるライオンは、作中で「私はあなたたちの世界で別の名を持っている」とはっきり言っている、イエス・キリストの体現です。
ルイスは自らのファンタジー世界で神になれたのにそれをしなかった。
少なくとも動機は伝道だったから、ファンタジーにおける葛藤は生まれなかった。
あったのかもしれないけど上手く昇華された。

クリスチャン友達でも、ナルニア国物語の話は安心してできるという雰囲気があります。
浅はかだなって思うんですけど、「作り手・情報の発信者に信仰があるかどうか」でころっと態度変えちゃう傾向があるんですよ、私たちって。
同じことやってても、同じこと言ってても、信仰がある人の言動のほうが心理的に圧倒的に受け入れやすい。
ちょっと怖いよね。
だってその人に信仰があるかどうかなんて、
もっと言うとその人の信仰の有無にかかわらずそのファンタジー、その文化が聖書的かどうかなんて、すぐに分かるはずがないのに。

最後に、ファンタジーに心を奪われることの何がいけないのかって色々あると思うけど、私が今最も実感しているのは「時間が取られる」ってことかなって思います。
いや、だってロードオブザリング(映画)って一作3時間かかるからさ、ホビット含めたら一周18時間なわけよ。
それ7周してるからね私。レゴラス出てくるところだけなら多分30周ぐらいしてるからね。
神様から責任もって賜った時間を、非聖書的世界観に浸るのに使っちゃう、それって喜ばれることじゃないよなあって、心のどこかでは分かっているんです。
でもファンタジーに惹かれる心をとめられない。
これって結構オタクリの性質の根底にかかわっている気がするね。

といういわけで今日は特別結論が出なかったけど、今度教会の友人とクトゥルフセッションすることになりそうだから、そのときまた色々考えて書こうと思います。
ファンタジーとは、もうちょい戦って…もとい向き合ってみて、戦果が出たら報告しますね。
もし音沙汰がなかったら捕虜に取られたと思ってください。

スターウォーズが嫌いな人にこそ読んでほしい!スターウォーズと聖書(ローグワン感想と考察)

 

いやー今更ローグワン観たんだけどめっっっっちゃ良かった!

あれはスピンオフなんかじゃない、スターウォーズの正史だ。

スターウォーズファンの端くれとして、どうしてこんなにもスターウォーズしてる作品を放置していたんだろう!?

 

というわけで、今回はスターウォーズキリスト教的考察の皮を被った「ローグワンの販促」となっております。

ローグワンのラストはお話しませんが、全体的にスターウォーズの内容に触れまくっているので、真っさらな状態で映画を観たい方は閲覧をご遠慮ください。

でも「スターウォーズは一作だけ見たけど付いていけなかった」とか「よく分からなくて取っ付きにくそう」って人はちょっと見てってほしいかなぁ。

 

具体的には、スターウォーズが何故に面白いのかと、人によっては何故に面白くないと感じてしまうのかをクリスチャン的に考えていきたいと思います。

結論から言うと「みんなローグワン観ようぜ」なんだけど、まあとりあえず聞いてくれよ!

 

観たことある人は何となく分かってくれるかと思うけど、スターウォーズって限りなく聖書的な世界観を基にしてますよね。

 

闇が光を覆う世界で、預言された救世主を待ち望む世界。

目に見えぬ力が存在し、それが悪にも善にも転ずる世界。

 

キリスト教ではイエスが、スターウォーズではアナキン・スカイウォーカーが、ともに人の父親を持たずに大いなる存在によって処女から生まれた救世主です。

また、聖書的考え方では聖霊(と悪霊)が、スターウォーズではフォースが、目に見えぬ力として世界を動かしています。

「フォースと共にあらんことを」という、スターウォーズにおける反乱軍の合言葉は、「主が共におりますように」というキリスト教の祈りと同じ発想です。

 

決定的に異なるのは、人として世に降り、様々な苦難や誘惑に遭いながらも、完璧な救世主として使命を全うしたイエス・キリストに対し、スターウォーズにおける救世主であったはずのアナキン・スカイウォーカーは、道半ばで暗黒面(ダークサイド)に堕ち、ダースベイダーとして、さながら堕天使のように力を振るい、世界を恐怖に陥れます。

スターウォーズを見る度、「イエスってマジですごいな」って俗な発想ながら思うわけですが、それは置いておいても、スターウォーズはとても興味深いですよ。

 

未視聴の方はご存知ないと思いますが、スターウォーズシリーズは物語の時系列と公開順に差異があります。

 

エピソードの時系列

1~3⇒ローグワン⇒4~6⇒7~9

 

1~3、4~6、7~9がそれぞれ1セットで主人公が一緒。

各矢印にはタイムラグがあって、登場人物ががらっと変わります。

ざっくり言うと

(1~3)救世主の誕生と堕天

(ローグワン)世紀末

(4~6)人々の勝利

(7~9)堕天の清算?後述。

こんな感じ。

 

エピソード公開順

4~6⇒1~3⇒7⇒ローグワン⇒8(これから⇒9)

 

普通、エピソード公開順にならって、4~6を「旧三部作」、1~3を「新三部作」、7~9を「続三部作」と呼んだりします。

敢えてナンバリングとローグワンしか入れなかったけど、他のスピンオフとかアニメとか入れるともうわけわからんって画像がネタとして流行ったこともあったっけ…(遠い目)

 

この混沌には商業的な経緯があって、ルーカスがシリーズ構想をユニバーサルに断られて、辛うじてFOXで受け入れられ、

こりゃ何としても最初の三部作で成功しないと残りが続かない!

となったとき、1から公開しちゃうと2と3が暗すぎてちょっと先行き不安だったんですよね。

(ちなみに最初は6部作だったのか、最初から9部作だったのかは諸説あり。というか真相はルーカスのみぞ知る)

観た人は分かるけど、2と3って「この後には4〜6があるから(汗」って思わないととてもじゃないが観ててメンタルがもたない。

1から始めてたら、絶対にここまでヒットしていなかった。

というか下手したら2で終わってた。

監督報酬を抑えてまでシリーズの所有権を取ったこともそうだし、ルーカスは商売の才覚すごいよね。

あと1〜3の内容は当時の映像技術では物理的に実現不可能だったという話もあります。

そんな訳で、一話でも割ときちんと盛り上がるエピソード4で始まり、結果的に大ヒットしたのでした。

 

ちなみに、ディズニーによる改悪とも言われている後付け三部作ならぬ続三部作ですが、これも今のところ一応プロテスタントキリスト教史の流れには沿っています。

スターウォーズは、一部の選ばれた超人だけがフォースを操り人々を導いていた時代から、人種や性別に関わらず、フォースが万人と共にある時代へ。

キリスト教は、一部のエリートだけが聖書を読んで祭司として人々を導いていた時代から、万人に聖霊が降り、皆が聖書を読んで神と個人的な関係を持つことができる時代へ。

もちろん、それはイエスという橋渡し的存在がいたからこそなのですが。

 

で、その上でのローグワンですよ。

ローグワンもディズニーなんですが、いやごめん悪口じゃないんだけど正直ディズニーとは思えない内容だった。

 

新三部作と旧三部作の間は、ダースベイダー率いる帝国軍の支配が強まり世界が絶望に包まれる「暗黒時代」なのですが、
ローグワンは、割と勧善懲悪モノだったスターウォーズのグレーな部分を、この暗黒時代で描くというコンセプトのもと、エピソード4開始の10分前までの経緯を描いた意欲作です。

 

10分前ってどういうこと?ということで、シリーズ第一作であるエピソード4冒頭に流れるお馴染みのオープニングロールを振り返ってみましょう。

 

It is a period of civil war.
Rebel spaceships, striking from a hidden base, have won their first victory against the evil Galactic Empire.
During the battle, Rebel spies managed to steal secret plans to the Empire's ultimate weapon, the DEATH STAR, an armored space station with enough power to destroy an entire planet.
Pursued by the Empire's sinister agents, Princess Leia races home aboard her starship, custodian of the stolen plans that can save her people and restore freedom to the galaxy....

時は内乱の最中である。秘密基地を発った反乱軍の宇宙船団が、邪悪な銀河帝国軍に対して初の勝利を収めた。
この戦いで、反乱軍のスパイは帝国軍の究極兵器の設計図を奪取することに成功する。それはデス・スターと呼ばれる、惑星をも完全に破壊できる力を持った巨大宇宙ステーションだった。
設計図を受け取ったレイア姫は、人々を救い、銀河系に平和を取り戻すべく、自船で故郷へと向かうが、帝国軍の密使に発見されてしまったのだった…

 

はい、ここで何度も見返して内容を覚えてしまったファンの皆さんに伺います!

これ初めて観たときの「えっえっどういうこと?いきなり出てきたデススターって何?てかレイア姫って誰?」って感覚覚えてますか?

基本的にスターウォーズって、どのエピソードもいわば起承転結の「起」が終わってる状態、「承」から始まってるんですよね。

起承転結全部描くととんでもない長さになるし、何より多分映画としてつまらないから。

目に見えて冒険活劇してるところだけ抜き出して、乗りと勢いで押し切る構成になっています。

だから「起」を全部文章で説明しようとするオープニングロールの情報量が多すぎて、初見だと「???」ってなるわけです。

スターウォーズが分からない」「ついていけない」っていう人が少なからずいる原因はここにあるんじゃないかなーと思います。

しかも4から見てるから尚更分からない。

 

でもね、スターウォーズお馴染みの壮大なメインテーマとともに流れるこのオープニングロール、何とローグワンには無いんですよ。

「ジャーン!ジャガジャーン!」っていうあのオープニングを期待したファンは裏切られたかたちになったけど、いやこれ一つの作品として完成されていることの証明ですよ。

だって説明が不要って素晴らしいじゃないですか。

 

だからエピソード4が分からなかった人は無理してセオリーに倣わずに、事前情報なしに観れるローグワンから入っても良いのではと思いました。

メンタルが持てばですけどね。

後は1から観るって選択肢もあるにはあるけど、前述のとおり2〜3がキツくなるから私はやはりローグワン→4〜6の順番がおすすめ。

 

そして私がローグワンを高く評価する理由の一つが、キリスト教的世界観と照らし合わせたときに、相違点である「救世主の堕天」「救いなき世紀末」に対して人間はどうするか?というチャレンジングな問いを投げかけている点です。

エピソード3と4の間、ローグワンが描いた暗黒時代はまさにそのような世紀末の様相でした。

 

この問いに対してローグワンが用意した答えは、ポスターにもはっきりと書いてある通り、「希望は死なない」でした。

アナキンという救世主を失ってもなお、スターウォーズの世界から希望、もっとピンポイントに言えばフォースが消えることはなかったのです。

まるで、昇天したイエス聖霊を遺していってくれた現代世界のように、救い主のいないスターウォーズの世界においても、一人一人に神が力を宿してくれている。

これこそが希望であり、信仰であり、時代を切り開く原動力となりました。

象徴的なキャラクターが盲目のフォース感応者、チアルート・イムウェです。

もはやフォースが眉唾になってしまった時代、イエスの奇跡のような目に見えるものとしてはフォースを信じられなくなってしまった時代。

ただスピリチュアルなものとして漠然とフォースを感じ、ジェダイですらない一般人のくせにジェダイ顔負けの力を振るう。

彼は映画こそ無敵の強さを誇る達観した仙人のように描かれますが、スピンオフ小説の「ウィルズの守護者」では、人並みに迷いや恐れを抱きながらも、言い聞かせるようにフォースに対する信仰を告白し、強靭な精神力でもってフォースの感応者であり続けていることが分かります。

 

ちなみに「ウィルズの守護者」は私と同類の方には是非読んでいただきたい一冊ですが、残念ながら邦訳がありません。

どうしても英語ができない私のような方はくだものさんがサイトbooks bananaで詳細な読書レポートを作ってくださっているので、そちらをご覧ください。

ウィルズの守護者

 

「ウィルズの守護者」中盤で、映画に出てきたソウ・ゲレラとチアルートの相棒のベイズが話す場面がありますが、そこでベイズがこんなことを言っています。

 

Most believed they had come because of the temple.
We thought, they have come to crush belief, because belief to hope, and hope can topple monsters.
They will stay long enough to crush hope, but they don't understand that hope can be a very small thing.
It doesn't need much to survive.
An occasional breath of air.
A flicker of warmth.
Hope can live in a vacuum.
(Greg Rucka, "Star Wars : Guardians of the Whills", p148)

 

以下はくだものさんの訳。


「なぜなら信仰は希望につながり、希望は怪物を倒すことができるものだからだ。だがやつら(帝国軍。きり注)は、希望を押しつぶすには十分な時間いるが、希望がとても小さなものでいいことを理解していない。希望は生き残るのにそれほど多くのものを必要とはしない。時折風がそよぎほんの少しの温かさがあれば。それだけで希望は生きていける。」

 

このベイズってキャラクターはチアルートと真逆で、フォースは信じてないし怒りを原動力として動く冷笑家なんですが、そんな彼でも原初的な人の希望の力を信じているわけですね。

ちなみにこの後ソウに「まるでお前の友人(チアルート)みたいな物言いだな」って言われて、ベイズが「いない時にはな」ってデレる萌えポイントがあります

 

スターウォーズって、人外が超能力でドンパチやるイメージなんですけど、旧三部作のそもそもの発端って、別にジェダイでも何でもなくて、
「時は内乱の最中である。秘密基地を発った反乱軍の宇宙船団が、邪悪な銀河帝国軍に対して初の勝利を収めた。」
ってエピソード4の冒頭に書いてある通り、名もなき一般人の集合体である「ただの宇宙船団」(しかも多く見積もって最初は数十人のならず者)だったんですよね。

華麗な超能力バトルの陰には、こんな風に名もなき普通の人々の、弱々しく、でもそう簡単には消えない、しぶとく泥臭い希望があって、それが積み重なって時代を切り開いたんだってことが、ローグワンでは描かれています。

この功績は、「ともすれば壮大な親子喧嘩だったスターウォーズの世界を広げた」という風にも、一般的には表現されますね。

 

つまり、キリスト教世界とは違って救世主を失ってしまったスターウォーズの世界において、暗黒時代に風穴を開けたのは、アナキンの子供たちといった選ばれた存在ではなく、人々の希望の集合体だった!

もっと言うなら、フォースの導きを人々が正しく受け取り、誰一人欠かさずに実行した結果だった。

ローグワンに登場する反乱軍は、ラスト1分に至るまで、誰一人欠けても4以降の展開は生まれないという描写になっています。

クリスチャン的には、イエスが昇天して、世界の終末を待つ現代において、一人一人が正しく自分の中の聖霊を燃やすことがいかに大切かが、ひしひしと伝わってくるわけですよ。

熱い!熱すぎるぞローグワン!

 

勧善懲悪や、選ばれし者のミラクル展開が苦手な人は、正直今までのスターウォーズはキツいところがあったと思います。

まあ100%勧善懲悪かって言ったらそうでもないわけだけど…

 

ローグワンは、そういうスターウォーズアレルギーみたいな発作を起こした人にこそ見てほしいです。

スピンオフだからこそできる、いい意味でスターウォーズの枠から外れた一作です。

 

メインテーマも流れず、ジェダイもおらず、ライトセイバーもなく、人によっては「こんなのスターウォーズじゃない」って言うファンもいるかもしれません。

でも私としては、スターウォーズの戦争叙事詩としての側面、そしてクリスチャン的に共鳴する部分にガッツリ切り込んだ、最高なスターウォーズです。

 

…。

 

…………。

 


…そして腐女子的には、スターウォーズ初のカップル解釈が公認の名コンビ:ベイチアを生み出した最高に滾るジャンルです。

 

ごめん綺麗にまとまりそうだったのに、最後の最後に我慢できず欲望が発露してしまった。


まあでもそんな感じでローグワン素晴らしいので(説得力…)、

スターウォーズが好きな人も嫌いだった人も、

クリスチャンもそうでなくても、

腐女子も一般の方々も、

みんなローグワン観ようぜ!

月の土地の政治性と宗教性〜ヘタリアの武装地帯から〜

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「この作品は実在の人物・団体・事件などとは一切関係ありません」という注釈がある。

 

よく見る。
あまりによく見るので、空気の如く気にも留めない存在だ。
字面は右から左に流れ、まともに意味を考える機会すらない。
それぐらい創作活動に必要不可欠な言葉。

 

でもこれ、書いたからといって全てが許される魔法の言葉なわけではない。

 

ちょっと前に、大河ドラマ真田丸」で関ヶ原の戦いが速攻で終わったのに文句が寄せられたことがあったのだが、それに対して三谷幸喜は「この作品は実在の人物・団体・事件などとは一切関係ありません」などとは当然弁明しなかった。
「“史実を追求した結果”、たった6時間で終わってしまった天下分け目の戦いの雰囲気を表現したかった」と言ったから、「やっぱ三谷幸喜はスゲーーーー」のである。

 

魔法の言葉のような免罪符が一人歩きしているが、その言葉は使用者が思っているほど万能ではない。
ちなみに私が「言ったら負けだ」と思っている二大免罪符は、

  • 「この世の全てと無関係」
  • 「キャラ崩壊注意」

なのだが、キャラ崩壊注意はひとまず置いておいて、「この世の全てと無関係」って言葉について考えてみたい。

 

私はクリスチャンだけど、仏教の縁起の考え方は概ね肯定する。
「本質だけが単独で存在することはできない」という部分だけはクリスチャンとして受け入れ難いけど、「この世のあらゆるものには相関関係がある」ということについてはなるほど尤もだと思う。

 

いや、だって普通に考えて、「この世で生まれたもので、この世と全く無関係のもの」って、存在できるだろうか?
逆に証明というか、そんな存在があるなら私に教えてほしい。

 

その上で「この世の全てと無関係」って、

もうギャグとしか言いようがない。

ちなみにきりの専門は社会学なので、ますます無意味な言葉に思える。

 

しかしこの言葉、腐女子の二次創作現場では思ったより使われる。
特に歴史モノのジャンルや、史実を題材にした作品でよく見かける。

 

単純に「すげぇな」って思う。
まるで書き手が一方的に関係性を断ち切る権限を有しているようで、厨二病的な目線からすると痛々しいほどに格好いい。
どんなに他人が「んなわけないやろ」って言っても、当の本人が知らぬ存ぜぬを貫き通しそうな強かな雰囲気がある。
中にはふざけたり深く考えずに書いている人もいるかもしれないが、だとすれば尚更性質が悪い。

 

これを書く心理って、
「自分が想定していなかった、あらゆる責任追求から逃れたい。つまり勝手にやらせて」

以外の何物でもないと思うのだが、このたったの一行で、生みの親が子どもに対する責任を放棄できるとでも思っているのだろうか。

 

この問題が非常に繊細に関わってくるジャンルのひとつに、かの有名なヘタリアがあるので、ちょっと引き合いに出したい。

 

※いまどき腐った話題でヘタリア知らない人もいないと思うけど、一応説明しよう!
ヘタリアとは、あろうことか国を擬人化して、史実を面白おかしくギャグ風味で描いちゃってる、治外法権日本でしか生まれ得なかった奇跡の産物である。
登場するキャラクター(国の体現)たちは、それぞれの国のイメージをかたどって出来上がっている。

 

私の推しのプロイセンを具体例にして話そう。
プロイセンという国自体は、「国家を有する軍」と呼ばれた特殊な成り立ちの軍事国家で、優れた軍と法の整備でドイツの礎を築いた。(ここまでテンプレート)

 

で、プロイセンをかたどったキャラクター、紛らわしいので以下ギルベルト・バイルシュミット(ギル)は、どんなキャラになっちゃったかというと、

  • 銀髪紅眼の厨二病
  • ぼっちで不憫
  • 俺様なウザキャラ
  • ドイツに兄貴風をふかす
  • 現役を退いた自宅警備員

てな具合である。
うん、改めて見ると字面がひどいな。
これだけでドイツ人が怒り出しそうな内容だ。
いや、やればできる子なんだぜ。

 

彼は

  1. 聖母マリア病院修道会
  2. いわゆるドイツ騎士団
  3. プロイセン公国
  4. プロイセン王国
  5. 東ドイツ
  6. カリーニングラード(ロシアの飛び地)

という嵐のような経歴を持っている関係で、二次創作のネタには事欠かず、様々な設定が付与される。
病院設定(医療に明るい)、修道会設定(敬虔なキリスト教徒)、ギル消失ネタ(連合の解体宣言を受けて既に国家を有さないため)などなど。

 

更に言うなら私の本命であるルーギル(ドイツのキャラクター:ルートヴィッヒ×ギルベルトのカップリング)なんてのは、

  • 「兄弟(弟×兄)」
  • 「主従(王×騎士)」
  • 「師弟(弟子×師匠)」
  • 「嘗ての敵同士」

など、属性過多も甚だしい。

 

東西分断からの劇的な壁崩壊、そして統一とオスタルギー、マイナーどころだが激熱なプロイセンクーデターまで、史実ネタも大変豊富。
奇跡的に仲良しな兄弟発言など、度重なる公式の爆弾投下に現時点で第八次東西ショックまで番号がついているほどには、話題に事欠かない。
いや本当に、兄を踏み台にして弟がのし上がったにしてはな、奇跡的な仲良しなんだぜ…!

 

話が逸れたので元に戻そう。

現代ネタが豊富なせいか、はたまた領民が最初から過激なのか、普領周辺は炎上しやすい。

(知らない人のために補足すると、ヘタリアでは推しの漢字表記+領で、その推しのファンを指します。よく言ったものだ)

よく普領を爆心地として抗争が勃発するので、私は密かに普領周辺を「武装地帯」と呼んでいる。
直近で印象深かったものとしてはやはり

「普領月の土地購入事件」

があるだろう。

 

※普領月の土地購入事件…
2014年10月31日(ドイツの宗教改革記念日)、本家に投稿された漫画のネタ「俺様プライベートコンサート」において、ギルの消失を匂わせる描写がなされたことで、推しが居なくなるのではと普領全体に激震が走った。その結果、国土を持たない彼の代わりに月の土地プロイセン名義で購入することで、彼の存在意義を守り消失を防ごうとする領民たちが現れ、炎上した事件。

 

「一般人の目に触れる場所で国名を出すな」
「でもじゃあ誰かが蜀とかの名義で土地買っても別に誰も何も言わないよね?」
「思想として国民の心の中に生き続けているプロイセンへの愚弄」
「別に本当に月の土地買ったわけじゃなくてジョークアイテムだし勝手にすればいいのでは」
などなど、様々な意見が飛び交って例の如く学級会が沸き起こった。

 

「この世の全てと無関係」を貫こうとする態度に比べれば大変けっこうなことだと思うが、こういったヘタ界隈での度重なる論争に疲れ果て、ひっそりと亡命していく領民も居なくはない。
かく言う私も俺様プライベートコンサートショックのごたごたで「めんどくせーーーー!」としばらくヘタリアから離れていた一人で、twitterの普領周辺はここ辺りでごっそり面子が入れ替わっている印象を受ける。

今でも普領の前で「コンサート」とか「フルート」とかいう単語を出すと彼らは頭痛に苛まれるだろう。

 

この現象で何が正しいことなのか言うことは難しいが、ひとつ言える事実は、この事件に心を痛めた人は確かにいるということだ。

そして、巻き起こした人々には悪意や自覚は微塵もなかったということ。

 

人は自由だ。でもやっていいことと悪いことはある。
そしてその判断と「自分と世界がどれくらい関係あるか」は全くの別物だ。
だって自分が発信した情報や行動の結果は、ひとたび身体から離れた瞬間、最早自分のコントロール下に置かれない。
「自分と世界がどれくらい関係あるか」を判断するのは自分ではない。
「それがどれくらい重要なことなのか」は、判断するのは自分ではなくて周りだ。

 

炎上した後で「そんなつもりで言ったんじゃなかった」という人がいる。
確かに悪意ある引用をされたり情報を捻じ曲げられたりと、明らかな被害者であることもある。
見抜けずに条件反射的にバッシングすることも良くない。
でも、だからと言って、自衛しなくていい、自制しなくていいとは言えない。
道端に無記名の(当たり前だが)一万円札を置きっぱなしにしておいて、盗んだ奴が100%悪いと誰が言えるだろう。

 

自分の持ち物の使用という次元の話であれば、傷つくのは自分だからまだいい。
私が何より忌避するのは、それによって傷つく人がいるという事態だ。

 

ときどき、二次創作を読んでいて、「クリスチャンとしての私が傷ついている」と自覚することがある。
ギルベルトや登場人物の口を通してキリスト教の考え方や歴史を否定されたり(批判は甘んじて受け入れる。特に十字軍辺りの描写は大変よくある光景だ)、神に反抗的な態度が良しと描写されるときだ。
本人は傷つける意図で書いたのではないので、私が勝手に傷ついているだけで、別に地雷問題みたいに書いた人に文句を言いたいわけではない。

 

ただ、断ったからって堂々と好き勝手言っている人、もしくは自覚なく好き勝手言っている人を見ると、危ないなーって思う。

だって大丈夫なんて誰も保証できないのに。

 

ヘタリアが生まれてくる国:日本って、無宗教を謳うが故なのか、自分の政治性とか宗教性にひどく無自覚な発言が多いように思う。

その結果、宗教性・政治性に対する反応が、下記のように両極端になってしまうのだ。

  • 「政治」「宗教」に直結する語彙→過敏に反応して忌避される。
  • 「政治」「宗教」に直結しない語彙→政治性・宗教性が徹底的に無視される。

 

「この世の全てと無関係」という言葉には、この二つの相反する、しかし原点は共通のエネルギーが込められている。

 

普領月の土地購入事件は、

使用者にとっては『「政治」「宗教」に直結しない語彙』であった「ギルベルト・バイルシュミット」を意図する「プロイセン」という語彙の政治性・宗教性が徹底的に無視されてしまったこと、

そして周囲に認識された「プロイセン」という『「政治」「宗教」に直結する語彙』が過敏に反応されて忌避されたこと、

この二つが悲劇のように折り重なって勃発した。

 

政治性と宗教性がない言葉はあらゆる文脈において存在し得ないと、私は考える。

というか何かしらの思想信条がある人は、一般的に自分の発言の政治性とか宗教性には敏感だ。

だからといって、いやだからこそ、アレルギー反応は起こさない。

 

どちらも敵に回しそうで若干怖いのだが、

プロイセン名義で土地を買った普領民には「「プロイセン」という言葉を使いながら政治的文脈から切り離されたキャラクターとして存続し得ると思ったのか?」と問うてみたいし、

それを叩いた普領民には「では「プロイセン名義の架空の月の土地」の政治性と、あなたが普段書(描)いているギルベルト・バイルシュミットという紛れもなくプロイセンを題材としたキャラクターの政治性の差異は何なのか?」と尋ねてみたい。

一般人の目に触れないからって政治的文脈から切り離されはしない。

 

別に批判しているわけではなくて、自分で言うのも何だが、こういうことを言っているときの腐女子の心理の二重構造について単純に聞きたいのだ。

 

ついでに言うとヘタリア自体が悪いと言っているわけでもない。

ヘタリアが世界史の勉強になって授業が楽しくなった!外国人とのコミュニケーションのきっかけになった!などという良い話も聞く。

ただステレオタイプの量産、国内の差異への意識の欠落、欧米中心の歴史観の助長などなど、弊害もたくさんあるから、ゴールではなくあくまで入口であってほしいというのが私の願いだ。

その上で、アレルギーを引き起こすのでもなく、かといって鈍感になるのでもなく、淡々とこのヘタリアという所業の政治性と宗教性に向き合うべきだと思う。

 

自分の政治性と宗教性を認識する。

それは偏りをもたらす行為ではなく、自分の偏りに気付いて、バランスを生み出す行為だと私は、私たちは思っている。

責任から逃れたくなる時もあるだろう。でもこの世の全てと私たちは関係している。

私たちがどんな自覚を持とうと、この関係が切れることはあり得ない。

唯一不可侵なのは神だけだ。

 

ちなみにクリスチャン腐女子としての私は、

イスラエルを擬人化したらどうなるんだろう、

とか、ここまでの話が台無しになるようなことを考えている。

(ぶっちゃけヘタリアイスラエルを擬人化していないからギリ国際問題にならずに済んでいると思っている)

こんなバカなことを考える腐女子が他がいるなら、ぜひお目にかかって語り合いたいものだ。

 

この境界線から何が見えると思う?

 

私の名前はきり。

20代後半の独身女性で、実家には二人の可愛い妹がいる。

趣味はゲームとカラオケとBL漁り。

最近のマイブームはTRPGとFX。

 

そしてクリスチャンだ。

ついでに言うと働いている会社は全員クリスチャンである。

 

この時点で「はあ?」ってなる人は、けっこうキリスト教のことを知っている方なのではないかと思う。

世間一般のイメージでは、クリスチャンは清く正しく穏やかで、禁欲的に生きているらしい。

もっと言うとFPSでえげつないプレイとかしないし、エロ動画とか見ないし、ギャンブルみたいな金稼ぎとかしない。

さらに付け加えるなら、一般的に「同性愛はアウト」「殺生アウト」「偶像崇拝禁止」と言っている聖書を読んでいる人々が、腐女子でゲーマーで、クトゥルフ神話で「いあいあくとぅるふ!」(邪神を讃える言葉)とか叫んだりしているわけがないと思うわけだ。

全くもって、脱帽するほどに正しい。

 

クリスチャン人口が1%以下と言われるこの日本において、特定のキリスト教知識だけは一般的に広がっていて、クリスチャンの清廉なイメージが形成されている。

このある意味栄誉ある経緯についてゆっくりじっくり調べるのも楽しいかもしれないが、今回はそういう趣旨ではなくて、どうしてこのブログを作るに至ったのかを簡単に書いておきたい。

(なぜって、最初に書いておかないと本人が忘れちゃうからだよ!)

 

今まで、こういう文化との境界線に揺れるクリスチャンの姿は、主に外来宗教としての立場から対仏教・対神道の文脈で描かれることがほとんどだったように思う。

でも現代日本を生きる私たち特に若いクリスチャンにとって、それは「最大の」問題ではない。

私たちの葛藤は、もっと日常に潜んでいる。

お金。娯楽。恋愛。

ひとたび口に出してしまったら、危うい均衡の上に辛うじて成り立っていた日常が、いとも簡単に崩れてしまう、そんな爆弾のような葛藤を抱えて、私たちは生きている。

 

まるで息を潜めて隠れているように思われても致し方ない。

私自身、仲間の誰にも、この葛藤を打ち明けたことはない。

私の信じる神だけが知っていればいいことだと思う程度には、私は自分が可愛い。

 

この文化の境界線上から見える景色はだいぶ歪んでいて、その救えなさに絶望した時期もあったけど、それでも一周廻って、ふと思ったわけだ。

この景色って、けっこう面白いんじゃないか?って。

 

決して開き直ったわけではない。

普通に毎日楽しいけど、それでも罪悪感はあるし、自分が嫌になる。

それに、「これを読んで少しでも楽になる人がいたら…」とか聖母も唸る公共的な思いを抱いたわけでもない。

ついでに言うなら、重箱の隅をつつき続ける科学の潮流に乗っかったわけでも…ない…と思う。

 

ただ、独り占めしておくには、この景色はもったいないと思ってしまった。

口から言葉が溢れて止まらない。

まだ自分と一番近しい方々にはカミングアウトできないけど、いつか笑って話せる日が来るって信じてる。

だって面白いから。

 

というわけで、「オタ」クな「クリ」スチャンの日常、始まります。